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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第21回

ご苦労さま

相手への称賛と激励

日本語には日本のよさを示すことばで外国語に訳せないものがたくさんある。日本文化を象徴する「わび」とか「さび」は、その代表格としてよく引き合いに出されるが、もっと日常の生活のなかで使っていることばにもそうしたものがある。「ご苦労さま」がその一つである。

このことをあらためて気づかせてくれたのは、ホッグさんというアメリカ人の英語教育の助手が、来日前に4年間日本語を勉強していたのに、「ご苦労さま」ということばは、日本に来て2~3か月の間よく意味がわからなかったと書いているのを読んだときのことである(シェリー・ホッグ「英語教育における“楽天主義”の欠落」『IDE』1983年1月号)。

「ご苦労さま」というのは、相手の努力をねぎらうことばであるが、これに相当する英語は、確かにわたしの乏しい知識に照らしても出てこない。ホッグさんがこのことばの意味が最初わからなかったのは、自分の文化のなかにそれに相当することば、さらにいえばそのような考えかたが欠落しているからであろう。

 

サンキューとは違う

感謝をあらわす英語としてサンキュー=thank youということばは、いわば外来語として日常的に使われてもいる。しかし、これは「ご苦労さま」とは違う。相手が自分にしてくれたことに対するお礼の気持ちをあらわすことば、自己中心的なことばである。

ホッグさんが理解した「ご苦労さま」は次のようなものである。

「『ご苦労様』は感謝だけでなく、相手への称賛と激励を表しています。ある行為が誰のためになされたかには関係なく、行為者が忍耐力をもってなしとげた容易ならぬ仕事への称賛を『苦労』が表しています。一般には、特定の人、あるいはその人に直接関係のある人が直接利益を受けたのでなければ、thank youは使いません。それに対して、『ご苦労さま』はfamilyに属する人がfamilyにつくせば、その人に対して使われます。『ありがとう』が『他者』を強く意識しているのに対して『ご苦労さま』は親近感を持たせます。『わたしたちはひとつ』という一族意識を『ご苦労さま』は表しています」

ホッグさんがいいたいのは、この「ご苦労さま」という「雰囲気が英語の教室に、特に生徒と先生の間に育まれれば、生徒の自信と達成感はさらに深まり、生徒が自信を持つ動機づけはさらに強くなる」だろうということなのである。「ご苦労さま」ということばは日本社会の伝統に根づいたことばとして高く評価しつつも、教室の中にはそれがみられないと実感しているのである。

 

<楽天主義>の欠落

ホッグさんは「ご苦労さま」の精神を「楽天主義」と呼んでいる。ホッグさんがかかわった多くのクラスを観察したところによると、日本の教室にはその楽天主義が「完全に欠落している」というのである。ホッグさんのいう楽天主義は、「あなたにもできますよ主義」というようにもいえるであろう。すべての者に自信を持たせる教育の原理である。これは単に英語教育にだけ欠落しているのではない。日本の教育全体に欠けているものといえる。いわゆる偏差値主義は「あなたはこんなところですよ」と自信を失わせる教育の原理である。

いま教育の転換を図るにあたって重要なことは、日本文化に根ざす「ご苦労さま」の精神にあらためて思いをいたし、それを教育の根幹に据えることではないだろうか。これは教育の技術ではない。あらゆる教育技術や方法を貫くべき基本的な原理である。

日本はいま人生80年時代に突入している。教育の成果を生涯という長期的な単位で考えるように、教育にかかわるすべての者の意識が変革されることが必要であろう。そのような「ゆとり」がなければ「ご苦労さま」ということばも出てこないであろう。

生涯という「ゆとり」のなかで教育を考えることによって「ご苦労さま」の精神を再発見し、それを日本の学校によみがえらせたいものである。