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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第10回

知 識

生きかた、問題意識とかかわらせる

同僚と飲んでいるとき、学生時代に受けた講義のことでこんなことが話題になった。講義を「行を変えて」ということばで始める教師がいたという話である。われわれの学生時代には、ノートをひたすら読むだけの教師が多かったが、先の話題はそれを象徴するものだといってよいであろう。

しかし、これは決して昔の話として笑いとばしてしまうことはできない。かつてわたしが勤務していた東京工業大学では、光ファイバーを使って大岡山(東京都)と長津田(神奈川県)の二つのキャンパスをつないで講義を行うシステムが開発された。わたし自身は直接その開発にかかわったわけではなく、また、そのシステムを使って講義を行ったこともなかったのであるが、あるとき外国からの視察者を案内したことがあった。

講義が行われていた大岡山キャンパスに案内したのであるが、長津田キャンパスには学生がパラパラとしか出席していなかったのである。視察者は「やっぱり教師が目の前にいないと講義を聞く気にならないのでしょうね」と感想をもらしたが、そのうちさらに興味ある事実が発見された。長津田キャンパスの教室には、学生の座っていない席にテープレコーダーが置いてあったのである。

日本の大学では出席者が少ないのは日常的な状況でそう驚くことでもないが、自分のかわりにテープレコーダーを出席させているという姿はやっぱり驚嘆すべきである。このことはいまでも講義は「行を変えて」式のものが多いということを物語っているといってよいであろう。

テープレコーダーの代理出席については、未来の教育の姿を示すものとして積極的に評価する者も多いかもしれない。これまでの教育システムにおいては、教育の時間は教育をする側によって決められている。学ぶ側には自分の受けたい講義の時間を決める自由はない。テープレコーダーの代理出席はこのような学ぶ側の不自由を解決してくれると考えるならば、右のような姿は未来の教育を示すものとしてプラスに評価することができる。

しかし、問題にしなくてはならないのは、テープレコーダーの代理出席ですますことができるような講義であろう。あとになって友達のノートを借りて読めば理解できるような講義、あとでテープを聞けば修得できる程度の知識を伝達するだけの講義こそが問題である。もちろんこれは自戒の念も込めての話であるが……。

といって問題は講義を行う教師の側だけにあるのではないであろう。知識は教えられるものと観念している学生の側にも問題があるというべきである。もうだいぶ以前の話である。学生から「先生ならこの問題についてどのように研究されますか」という質問をうけたのであるが、うっかり思いつくままにいろいろなアイディアを話していたところ、「なかなかそれはいいですね。そのようにすることにします」といったと思ったら、ニコニコして帰ってしまったのである。以来、その手はくわないようにしているが、教師にこのような期待をしている学生が多いのである。

知識には自分の生きかたとは関係なく勲章のごとくただ「持つ」だけの知識と、自分の生きかたなどとかかわらせながら、問題意識を持って修得する「ある」知識があると思うが、「持つ」知識の交換にのみ関心が強い教師や学生が多いように思えてならない。

いま教育界では、急速に変化する社会に対応できる“新しい”学力を形成することが課題となっているが、「持つ」知識から「ある」知識への意識の転換が行われないかぎりその達成はおぼつかないのではないだろうか。小学校から大学まで、教える者と教えられる者という教師―生徒関係が打ち破られなければ課題は達成されないのではないだろうか。教師は生徒にとって「持つ」ものから「ある」ものに変わらなければならないのではないだろうか。